うぼうぎょしんきょうにんしん2つ目に、持田栄一が考えていた「仏教保育が目指す人間関係」についてご紹介します。その中心にあったのは、保育とは「つながりをつくり、育てていくこと」だという思いでした。持田は、「保育者と子どもは、対等な共同生活=共同探求者」であると考えました。彼の教育観では、教育に「教える者」と「学ぶ者」の区別はありません。両者は持田は当初、福祉国家のモデルとしてヨーロッパを学ぶつもりでしたが、実際にはそれほど福祉的とは感じられず、ヨーロッパの制度の模倣では日本人は幸せになれないと考えるようになります。そこで持田は、「日本人の生活に根ざした独自の教育制度を築くべきだ」との考えに至ります。ヨーロッパの教育にはキリスト教という独特の宗教的・文化的・社会的背景があるのと同様に、日本では仏教が教育を支える宗教的基盤となるのではないかという思いを強め、帰国の途に就いたようです。帰国後は「仏教教育研究会」を立ち上げ、月例会を増上寺で開催。その後、1969年には「現代幼年期教育研究会」を発足させ、保育に関する研究にも力を注ぎました。1978年夏、すい臓がんで急逝。1980年には、郁子夫人の寄付により「持田賞」が創設されました。てみよう」と言われたら、子どもは自分が認められたようでとてもうれしいはずです。保育者は、つまらないプライドを捨て、「分からないから一緒に考えよう」と言える柔軟さを持つことが大切だと思います。持田は、他者との絶対的に平等な関係性こそが教育に求められると考えました。保育者と保護者の間においても、「同じ人間」として話し合うことが基本だと述べています。「同じ人間」とは、「絶対的な平等のもとに立つ人間」です。保育者も保護者も、立派であろうとする必要はなく、弱さや未熟さをさらけ出し、ありのままを受け入れ合える関係性から、互いの信頼関係が成り立っていくのではないでしょうか。持田が直接引用する数少ない仏教書の一つが、浄土真宗の開祖・親鸞の『歎異抄』です。その第5章に基づいて「子ども・親・教師たることの前に『弥陀の本願』に導かれた人間の存在があるのであり、このような絶対の立場に立って人間の連帯が切り結ばれる」と説いています。それは、全ての人間は、子ども・親・教師である以前に、弥陀の本願に導かれ良い方向に進んでいく存在であり、三者が共にい自覚の上にその関係性を結び「ともに仏の道を求める行者であり、同どう朋同どう行の関係」であるとされています。この対等・支え合う関係性は「自じ信教人信(まず自らが信じることで、他者が信じることに導かれる)」の関係であると述べています。これは中国浄土宗の言葉で、浄土信仰におけるこの関係性は、持田の仏教理解に大きな影響を与えました。「保育者と子どもは対等」という考え方について、持田は「人が、自力で他者を教え導いて、仏恩を信じさせるように仕向けることは困難極まりないということに気づかなければならない」としています。つまり、「人間は誰かを教えることはできない」ということです。「教える側」と「教えられる側」があると考えると、両者には決定的な区別が生じます。しかし、「教師も無力で教えることができない存在だ」と考えるなら、両者は平等になるのではないでしょうか。お互いに無力なのだから「教える者も学ぶ者も絶対者(阿弥陀如来)を信ずるよりほかなく、その恩寵に浴して、恩に報じるほかはない存在だという点で、両者はつねに絶対的に平等である」ということです。子どもにとって、「先生も知らないんだ」と気づく時は、先生との心の距離が縮まる時です。「絶対的人間」であるという新し「先生も知らないから一緒に調べ仏教保育が目指す対等な人間関係あかし第 734 号(2)令和7年9月1日発行 1925年1月 群馬県館林生まれ(今年は生誕100周年)1944年大阪高等学校(現・大阪大学)文科乙類卒業1945年海軍航空隊入隊(千葉県館山。対潜哨戒に従事)1953年東京大学教育学部教育行政学科講師玖村郁子と結婚1958年東京大学教育学部教育行政学科助教授国分寺市に居宅を構える。灯1965年西ドイツに留学(1年の文部省在外研究員)1966年仏教教育研究会発足(増上寺で月例会開催)1969年東京大学教育学部教授現代幼年期教育研究会発足(1972年まで)1978年インド訪問1978年7月 すい臓がんのため急逝1980年郁子夫人の寄付による日本仏教保育協会持田賞創設1984年幼児教育に関する遺稿集刊行持田栄一 略歴 生家は醬油の醸造業を営むも、昭和恐慌で破綻 滋賀県に転居、1942年八日市中学校卒業 教育行政学者・宗像誠也に師事 福井豊信、渡辺真澄、末光義史、山内昭道、杉原誠四郎の 各氏らが参加 東大闘争に巻き込まれ、加藤総長代行と共に学生と対峙 全共闘に同情的とみられていた(長男)誕生
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