202509
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早いもので、埼玉県で開催されました全国大会での第22回持田賞授与式から1年が経過しようとしております。このような栄誉ある賞をいただき、感謝申し上げます。持田賞は「持田栄一」という人物の名前を冠した賞であり、本日は持田栄一と仏教保育についてお話しさせていただきます。私は、東京大学教育学部の教育学コースで学び、卒業後は、東大大学院の教育学研究科基礎教育学コース(前身は教育史・教育哲学研究室)に進みました。2011年から保育士養成校で教員を務め、現在は大阪公立大学で保育者養成の仕事をしております。持田栄一は、戦後日本の教育学において少し異質な考えを求める若者を広く受け入れていたということです。その弟子たちは多彩で、とても一人の師のもとから育ったとは思えないほどです。「偉大な師は弟子を自分のコピーにしない」といわれますが、持田もそのような人物であったろうと思います。ポイントがあります。1つ目として、持田栄一のプロフィールを簡単にご紹介します。県館林で生まれました。今年は生誕100周年に当たり、この記念の年に研修会の講師をさせていただくことをうれしく思っています。のが1953年。同年に玖く村む郁子さんと結婚され、亡くなるまで東大で教員を務めました。1965年に文部省の在外研究員として西ドイツに1年間留学し、これが大きな転機となりました。本日の内容は、大きく4つの持田は1925年1月に群馬東大教育学部の教員になった持つ人物でした。私の大学院の指導教員である小玉重夫教授がその考え方を重視しており、私が持田の名前を初めて知ったのも教授を通してでした。戦後の教育学の創設期を支えた一人として、持田の人物像をご紹介します。持田は「早世の理論家」として知られ、難解な論文や著書を多く出した人物とされています。先ほど「異質な考え」と申しましたが、東大教育学部においては異端的な存在だったといえます。例えば、当時の教員は共産党支持者が非常に多かったのですが、持田は社会党寄りの立場でした。それでも、今日までその名が語られているのは、彼の考えが現在にも通じる深いメッセージを含んでいたからでしょう。豪快な酒豪としても知られ、国分寺の自宅に弟子を集めて酒宴を開くこともあったそうです。深夜まで飲んで寝て、弟子が目を覚ますと、持田がすでに起きて論文を書いていたという逸話も残っています。一方、旧制中学時代から柔道の愛好家で、体格がよく、あだ名は「ダンプカー」だったそうです。そして、「寛容な師」でありました。多くの弟子に囲まれ、直接の指導生に限らず、議論を持田栄一研究により第22回持田賞を受賞「持田栄一」とは誰か持田栄一と仏教保育令和7年6月18日/大本山増上寺・光摂殿吉田直哉氏 (大阪公立大学大学院現代システム講師 令和7年度第1回仏教保育研修会 9ら目次令和7年9月1日発行 科学研究科准教授・教育学博士)令和 7 年度第 1 回 仏教保育研修会 ……………………………… 1 〜 3第 35 回理事会開催/新役員紹介…………………………………… 4〜5愛知県支部 新任保育研修会報告 ……………………………………… 5大阪公立大学大学院現代システム科学研究科准教授・教育学博士吉田直哉氏各 種 委 員 会 名 簿 …………………………………………………… 6第 27 回参議院議員選挙 当選祈願法要/当選者一覧 ……… 7コ ラ ム / 編 集 後 記 ………………………………………………… 8(1)第 734 号2025- 第 734 号 -持田栄一氏

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