はじめに会長、副会長の顔ぶれ○理事理事、主事、委員の顔ぶれ前回の6月号(第695号)では、仏教保育協会の役員一覧を参考にしながら、顧問の顔ぶれについて詳しく紹介しました。その多くは、仏教保育に関係する各分野を代表する有識者や専門家で構成され、それ以外のおよそ半数が僧侶で、各宗派における本山の住職や実務トップといった重要な役職につくような関係者が名をつらねていました。そのため、協会の顧問には、仏教保育に関係する各分野や各組織の第一線で幅広く活躍していた多くの先人たちが、携わっていたのです。そして、今回は、顧問以外の役員で残った会長や副会長、理事などの顔ぶれや、理事と各宗派との関係性について、お話ししたいと思います。なお、各役員の肩書きにつきましては、「協会役員」の一覧が掲載された頃を基本としています。協会役員に関しては、前回の機関紙で、1933(昭和8)年1一覧を掲載しましたが、今回は、この1ヶ月前の1932(昭和7)年12月1日に発行された機関誌(創刊号)にも掲載のあった「協会役員」一覧を掲載します。なお、原文は旧字体で書かれていたり、漢字が見えにくい箇所があったりしますが、できるだけ当時の機関誌に掲載されたままをご覧ください。(下図参照)創刊号の「役員一覧」には、第2号に掲載されていた顧問の一覧はなく、同じ段には、「全国仏教保育大会決議文」が掲載されています。これは、1931(昭和6)年月1日発行の機関誌『仏教保育』第2号の巻末に所載の「協会役員」の一覧で、まず会長と副会長を見7月に、東京で開催された全国仏教保育大会において決議された決議文を創刊号の巻末に掲載した都合から、役員一覧の一部が省略されたと考えられます。この決議文に関しましては、初開催の全国大会についてお話しする中で、詳しく触れたいと思います。さて、今回掲載した「協会役員」てみますと、会長が安藤正純、副会長が富田斅純と関寛之の2名となっています。会長の安藤正純は、真宗大谷派寺院の出身で僧籍に入っていましたが、当時は衆議院議員で、犬養毅内閣で文部政務次官を務め終えたところでした。ちなみに、戦後は、第5次吉田内閣で国務大臣を、めました。次に、副会長の富田斅純は、真言宗豊山派宗務長や大正大学教授などを歴任し、東京市中野区塔ノ山町(現在の東京都中野区中央)にあって、当時は、中野区役所が境内にあった宝仙寺の住職をはじめ、中野高等女学校(現在の宝仙学園中学校・高等学校)の校長、同派の管長などを務めていました。なお、「斅」は「学」の字での代用が見受けられますが、もともとの名前の読み方は「こうじゅん」です。そして、もう一人の副会長である関寛之は、東洋大学の教授で児童学や児童心理学、宗教心理学などの研究者として知られています。機関誌『仏教保育』の創刊号では、「仏教保育講話」と題した記事で、「仏教保育とは何か」といった論題を執筆したり、自身の著書でも仏教保育に関して記したりするなど、仏教保育協会では、学術的な指導者という立場にありました。また、1928(昭和3)年に協会が創設された翌年の1929第1次鳩山内閣では文部大臣を務(昭和4)年には、その後90年以上も続く仏教保育事業の「はじまり」となる研究会を担当したのが関で(「日仏保の歩み⑬」『仏教保育』第687号)、仏教保育協会では重要な役割を果たしていた一人です。次に、それぞれの理事や主事、委員を「協会役員」一覧の掲載順に、宗派と当時の機関誌で表明していた肩書きについて見ていきますと、次のようになります。稲垣実秀(真宗大谷派) 岩崎鳳栄(真宗大谷派) 出雲路宏(真宗大谷派) 岩本勝俊(曹洞宗) 吉祥寺執事稲葉文海(日蓮宗) 堀緑羊大野柔忍(浄土真宗本願寺派) 和田辨瑞(真言宗豊山派) 加藤通温(日蓮宗) 国東秀雄(浄土真宗本願寺派) 小熊月照(曹洞宗) 山田顕達(浄土宗) 徳風幼稚園長大谷派東京出張所大谷派本願寺東京別院文学士(曹洞宗) 金沢学園長本派本願寺東京別院音羽幼稚園主事日蓮宗務院社会課国東幼稚園長曹洞宗務院社会課小石川学園主事《日仏保の歩み⑰》―戦前編「仏教保育協会と各宗派との関係性(3)」―佐藤成道 淑徳大学アジア国際社会福祉研究所リサーチ・フェロー/曹洞宗常仙寺副住職 「協会役員」 (機関誌『仏教保育』創刊号 1932年12月1日発行より)令和4年11月1日発行第700号(4)
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