仏教保育協会の事業開始は「1929(昭和4)年」育協会の事業開始」とあります「本郷吉祥寺栴檀幼稚園に置き」ように、1929(昭和4)年1月から仏教保育協会の事業が開始されたことが明記されています。確かに、1928(昭和3)年7月に事務所が開設された際に、様々な事業を行うことが表明されていました。しかし、今回の新聞記事を見る限り、実際的には、1928(昭和3)年にそれらの事業はほとんど行われていなかった可能性が高いと考えられます。次に、協会の事務所についてとありますように、当時の本郷区(現在の文京区)の吉祥寺の境内にあった栴檀幼稚園に置くことが書かれています。「吉祥寺」は、東京の武蔵野市にあってJR東日本(中央本線・中央線快速、中央・総武線各駅停車)と京王電鉄(井の頭線)が乗り入れる駅名や、その周辺地域の名称として知られていますが、この地域に「吉祥寺」という寺院はありません。各種の「住みたい街ランキング」の常連でもありますが、この地名は、現在の文京区本駒込にある「曹洞宗諏訪山吉祥寺」に由来しています。吉祥寺の縁起は、1458(長 ■■■■■■■■■■■ 禄2)年の江戸城の築城の際に設けた庵にまで■ります。1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入府すると、当時の神田山で、現在のJR東日本や都営三田線の水道橋駅の東側にある東京都立工芸高等学校のあたりに移り、その後、1657(明暦3)年に死者が6万人以上にも上った明暦の大火で焼失して、現在の場所に移転しました。なお、武蔵野市の吉祥寺は、もともと明暦の大火で吉祥寺の門前町も焼失し、人々が焼け出されて移り住んだ土地で、移住した人々が故郷を想って名付けたといわれています。ところで、1592(文禄元)年には、神田山にあった当時の吉祥寺に、僧侶が学問を学ぶ「学林」が創設されました。正式には「吉祥寺会下学寮」と称されますが、駒込の地に移転してからは、中国の名僧である陳■道栄が唐代の『証道■■歌』という禅の要諦が書かれている詩集から「旃■檀■林■」と命名し、青■松寺(現在の港区愛宕)の「獅■子窟」、「学■寮■■」とともに江戸三学寮の一つとして、現在の駒澤大学の源流となっています。そして、現在も吉祥寺の山門には、「旃檀林」と書かれた■■額■が掲げら■■■■■■■泉■岳寺(現在の港区高輪)の■■■■■■■■■■れています。なお、「旃3檀林」と「栴3檀幼稚園」は、いずれも冒頭の漢字は音読みで「セン」ですが、それぞれの部首は、前者が「ほうへん」、後者が「きへん」となっていることに注意が必要です。そんな吉祥寺の境内に、1927(昭和2)年9月に創立されたのが栴檀幼稚園で、およそ1年余りが経過した1929(昭和4)年1月頃に仏教保育協会の事務所が設置されました。1928(昭和3)年7月に、当時の東京府南■飾郡(現在の墨田区)にあった玉井閣に最初の事務所が開設されましたが、わずか半年後にその場所が変更されたのです。当時の東京市郊外から、仏教保育協会の発会式が行われた東京帝国大学仏教青年会館も立地する本郷区に移転した事情は定かではありません。おそらく、協会の理事を務める吉祥寺の岩本勝俊によるところが大きいと考えられますが、利便性のよさか、当初からの事務所設置の予定が間に合わなかったのか、あるいは、仏教保育協会のその後の事業展開を見据えてのことなのか…、いくつかの可能性は想像できますが、はっきりとした理由はわかっていません。いずれにしましても、仏教保育協会の事業が本格的に開始されたのは、吉祥寺の栴檀幼稚園に事務所が移転してからだといえます。そして、記事に記されている事業は、最初の事務所を玉井閣に開設した際に表明されていたものとほとんど同じで、新しいことは書かれていません。仏教保育協会が開始した事業については、1929(昭和4)年1月29日(火)午後2時から、当時の小石川区(現在の文京区)にある護国寺の音羽幼稚園で、仏教保育協会の副会長である関寛之が講師となって、「幼児保育」を内容とした第1回の研究会を開催するとあります。つまり、仏教保育協会が最初に対外的な事業を行ったのは、現在の東京メトロ有楽町線の護国寺駅1・2番出口からすぐの「真言宗豊山派寺」の境内にあって、1925(大正14)年に創立した音羽幼稚園だったのです。そして、記事の最後で毎月の継続開会を予告していた通り、翌2月23日(土)も午後2時から音羽幼稚園で研究会が開催され、関寛之が「幼児の遊戯」について研究発表を行いました。仏教保育協会は、1928(昭和3)年7月に事務所が開設されて、10月に正式に発会しましたが、事業が実際に開始されたのは、その内容が最初に公表されてからおよそ半年もあとになってからのことだったのです。しかしながら、7月と10月のいずれを「創立」と見なすにしても、仏教保育協会が創立されたのは、1929(昭和4)年ではなく、1928(昭和3)年であることに間違いありません。最後に、今回の新聞記事で指摘しておきたいのが、関寛之の肩書が仏教保育協会の「副会長」と明記されていることです。協会の初期の役員に関しては、就任の時期や経緯など判明していないことも多いのですが、1928(昭和3)年10月の発会式の頃には、会長や副会長といった主な役員は定まっていたであろうことが推測されます。大本山護国次々回の機関紙では、仏教保育協会の初期の役員についてお話しする予定ですが、それに先立って、次回は、発会式よりも以前の玉井閣に事務所が開設された頃に携わっていた最初期の関係者の存在についてお話ししておきたいと思います。令和3年10月1日発行第687号(4)
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