202102
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■■■■33■■■■33■■■■■■■■昭和天皇の御大典記念事業としては「天皇退位特例法」など)の成立を受けて、新天皇の国事行為として指定された「剣■■璽等承継の儀」のことであろうといえます。また、特例法には「等」とあることから、剣璽である神剣・神璽だけでなく国印である「国■■璽」や天皇の御印である「御■■璽」の継承も含まれます。そして、「三種の神器」で残る神鏡は、その本体は皇■大■神■宮■(伊勢神宮内宮)に奉安され、宮中三殿の一つで皇霊殿と神殿とならぶ賢所に御分霊としての依■り代■である「形■■代」として安置されてご移動されないため、皇位が継承されたことを奉告する「賢所の儀」も行われることで、三種の神器が継承されます。次に「即位」ですが、これは皇位継承のあとに、天皇陛下がそのことを公に国内外に宣告されることです。「皇室典範」には、「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う。」(第24条)と定められ、日本国憲法下では国事行為である「即位の礼」として、「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」、「饗宴の儀」という5つの儀式があります。ところで、先に言及した大嘗祭は、国事行為としての「即位の礼」に含まれていません。これは、2018(平成30)年11月30日(金)の秋篠宮さまの当時53歳のお誕生日を前にした記者会見での大嘗祭をめぐる国費支出に関するご発言の中でも言及されていましたが、憲法の政教分離の原則により、宗教色が強いとされているためです。明治憲法下の1889(明治和22)年に廃止されるまでの「旧皇室典範」では、「即位ノ礼及大3嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」(第文言が明記されていました。また、現行の「皇室典範」では「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」(第4条)と定められていますが、「旧皇室典範」では「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」(第10条)と記され、大嘗祭と同様に「践祚」という文言も明記されていました。これが戦後には、「大嘗祭」とともに「践祚」という文言も消えたのです(本段落引用の圏点筆者)。そのため、「旧皇室典範」では、践祚して三種の神器を継承することが「皇位継承」で、その後に、天皇陛下が皇位につかれたことを公に国内外に宣言されることが「即位」とされていました。しかし、即位の礼における国事行為としての「剣璽等承継の儀」が定められ、さらに、現行の「皇室典範」では、「践祚」の文字が消えて「即位」の文言だけが残っていることから、(平成元)年1月9日(月)には、戦後における「御大典」は、「剣璽等承継の儀」などを含んだ国事への改元は憲政史上はじめてのこ(土)、大正天皇の崩御を受けて一連の即位礼の準備期間が必要行為としての「即位の礼」と皇室行事としての「大嘗祭」の一連の儀式のことであるといえます。天皇の御退位に伴った「令和」とで、御譲位は、1817(文化のそれ以来、約200年ぶりのことです。令和時代は、皇位継承から即位までの一連の儀式は基本的に改元の初年である「元年」のうちに行われました。しかし、昭和天皇は、1926(大正15)年12月25日その日に践祚され、即位礼は1928(昭和3)年に行われました。践祚から即位礼までに2年空いたのは、1909(明治42)年に制定され、1947(昭和第20条の中で「…大行天皇及皇太后ノ為ニハ一年ノ喪ヲ服シ…」と定められ、大■■行天皇である前天皇の崩御から1年喪に服したあとで、だったためです。また、平成時代は1989(昭和64)年1月7日(土)に「剣璽等承継の儀」、2日後の1989国民の代表にお会いしてお言葉を述べられる「即位後朝見の儀」が■■行われましたが、その後の一連の即位の礼が行われたのは、「皇室服喪令」第21条にも記されていました「諒■■闇」という天皇が前天皇の崩御にあたって喪に服すとされる期間が明けた翌年の1990(平成2)年のことです。すでにお話ししたように、かつては皇位継承と即位をわけて、皇位継承した後に、それを宣告して祝意を受けることが即位礼でした。そのため、昭和天皇の即位礼は、1928(昭和3)年11月10日(土)京都御所での「即位礼紫■宸殿の儀」(現在の「即位礼正殿の儀」)や同月14日(水)〜15日(木)の大嘗祭などの一連の儀式のことを意味していました。つまり、昭和天皇の「御大典」は、「即位礼紫宸殿の儀」や「大嘗祭」を併せた即位礼の一連の国家的な儀式のことを意味していたのです。先に引用した協会役員の言葉で「昭和3年御大典を記念に仏教保育協会を設立」などと記されていました。1928(昭和3)年7月の読売新聞では「仏教保育協会生る」と公言されていましたが、記事内で記されていた「仏教保育協会の創設」や「事務所の設置」は、御大典を記念した事業として行われたとは書かれていません。これが、およそ1か月後の翌8月になると、東大仏教青年会館で懇談会が行われ、御大典記念事業■■■■■■■について話し合われたという記事で(『読売新聞』1928[昭和3]年8月30日朝刊)、はじめて「仏教保育」と「御大典」が結び付いていたのです。この懇談会での御大典記念事業が、仏教保育協会の発会式を直接的に意味しているかどうかはわかりませんが、その後も東大仏教青年会館で協議を重ねた結果、御大典記念事業として開催されたのは、同年10月14日(日)の「仏教保育協会の発会式」でした。先の協会役員の引用では「発会式」という文言はありませんが、御大典記念事業として行われていたのは、厳密にいえば、仏教保育協会の「設立(創設)」というより、「発会式」のことです。発会式が行われたのは、昭和天皇の御大典が行われるおよそ1か月前で、日本列島が大いに盛り上がりを見せていた頃です。発会式の開催時期としては、仏教保育協会が設立される大きな要因として背景にあった、1926(大正年あまりという適時のように見えます。しかし、「御大典記念事業」として発会式が行われていたからこそ、必ずしもそうとは言い切れない可能性も見出されるのです。次回は、そのあたりの事情にも触れながら、東大仏教青年会館で発会式が行われた背景などについてお話しします。(5)第679号22)年に廃止された「皇室服喪令」15)年の「幼稚園令」制定から211条)として、「大嘗祭」という22)年に制定され、1947(昭14)年の光格天皇から仁孝天皇へ令和3年2月1日発行

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