仏教保育協会生る仏教主義の幼稚園託児所の科学的研究実際的指導と連絡統一を計る趣旨の下に、このほど堀緑羊氏ら仏教関係の幼児教育研究実際家の提唱によって仏教保育協会が創立された。当分事務所を市外寺島町三四四玉井閣内に置き左の事業を行う▽幼稚園及託児所の経営相談▽教材の選択と供給▽講師の派遣と保母の紹介▽パンフレットの刊行▽研究会講演会等の開催記事の内容を見ますと、まず見出しでは、「仏教保育生る」と明記されています。そして、記事の冒頭には、幼稚園と託児所に関する科学的な研究と実際的な指導を行うことや、各宗派をはじめとした仏教園などの関係者と連絡統一を図ることを趣旨として協会が設立されたことが書かれています。次に、仏教保育協会は堀緑羊を筆頭とした仏教関係の幼児教育研究家や実務家などの提唱によって創設されたとあります。さらには、「当分事務所を市外寺島町三四四玉井閣内に置き…」(圏点筆者)とあるように、「当分」は事務所を玉井閣内に置くとしています。「玉井閣」は、当時の東京府南■飾郡寺島町玉ノ井(現在の墨田はじめに仏教保育協会の「誕生」《日仏保の歩み⑦》―戦前編「仏教保育協会生る」― 33■ 淑徳大学アジア国際社会福祉研究所リサーチ・フェロー/曹洞宗明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。本年は皆様にとってよき仕合わせな一年となりますことを心よりご誓願申し上げます。機関紙を通して、日仏保、そして仏教保育の魅力と限りない可能性を発信してまいります。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。さて、これまで日仏保の前身であります仏教保育協会の前史についてお話ししてきましたが、新年1月号では、仏教保育協会がいよいよ設立の時を迎えます。2021(令和3)年という新たな年が明けたように、仏教保育協会も「誕生」という夜明けを迎えることになります。前回の機関紙『仏教保育』12月号(第677号)では、「仏教保育」という言葉のはじまりについて書かせていただきましたが、「仏教保育」という名称は、堀緑羊が仏教保育協会の設立と時を同じくして提唱したものでした。通仏教主義の保母養成所設立へ向けて仏教界が一致団結することを目指し、全国の仏教系の幼稚園や保育所(託児所)の垣根や宗派を超えた組織として一体化し、既存の仏教園などの関係者のみならず、これから新たに事業を始めようと志す関係者も全国的に支援することで、子どもたちはもちろんのこと、その家族や地域の安寧も通仏教によって意図すべく命名されたのが「仏教保育」です。さらに、前号で「『仏教保育』という言葉は、1928(昭和3)年7月に新聞記事として公に(昭和3)年7月28日(土)の読売常仙寺副住職 初めて登場しました」ということについて、「資料を掲載する予定です」と記しました。それが、この記事です。1928新聞の朝刊に掲載されたものです。「仏教保育協会」という名称は、この新聞記事によって、はじめて世に公表されました。しかし、90年以上も昔の記事で、文字が旧字体だったりかすれたりしているため、見出しを含めて全文を再掲載しておきます。なお、旧字体は新字体に、一部の漢字はひらがなに変更してあります。区墨田3丁目)にあった布教所で、現在の「曹洞宗神向山 のことです。寺院のある場所は、東武スカイツリーライン・伊勢崎線のかつては玉ノ井駅だった東向島駅と鐘ヶ淵駅のちょうど中間あたりで、南西の方角にある東京スカイツリーまで直線距離で2.4㎞程のところにあります。もともとは、豊川稲荷の御神霊を勧請した玉ノ井稲荷の祠がはじまりで、今も「玉ノ井稲荷」の名で親しまれています。また、「玉の井」という地名は、文豪・永井荷風の代表作の一つで、1937(昭和12)年に出版された『濹■■東綺■■譚』の「ラビラント」(迷宮)の名でも知られています。1923(大正12)年に発生した関東大震災の後に浅草辺りから私娼屋の移転が急増して、遊里が形成され発展していた地域です。仏教保育協会が設立されて最初の事務所が玉井閣だったのは、当時、堀緑羊が同町に立地する寺島幼稚園に勤めていたため、地理的な理由によるものといえます。ところで、新聞記事には、「当分」という「今のところ、しばらく」といった意味合いの副詞的な表現が挿入されています。結果的には、事務所は約半年後に移転することになりますが、玉井閣に設置された事務所は、当初から時限的、仮説的で、いずれは移転することを前提に書かれているかのようです。■■東清寺」佐藤成道(出典:『読売新聞』1928年7月28日朝刊)「仏教保育協会生る」令和3年1月1日発行第678号(2)
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