仏教園の「はじまり」「幼稚園令」の制定 ■■■■される四谷鮫河橋に移転(現在の「二葉南元保育園」)して、子どもたちのためにキリスト教による保育を行っていました。ところで、仏教園の「はじまり」は、いつどこに求めたらよいでしょうか。幼稚園の「はじまり」に関しては、1876(明治9)年11月に東京女子師範学校附属幼稚園が創設されたことや、前年の1875(明治8)年12月に京都上京第三十区第二十七番組小学校(のちの柳池小学校)に「幼■稚遊嬉■■場」が付設されおよそ1年半で廃止されたことが知られています。しかし、実はこれよりも早い時期に仏教園が開設されていました。1875(明治8)年12月の京都の幼稚遊嬉場よりも2ヶ月早い同年10月26日に、京都府船井郡安栖里村(現在の船井郡京丹波町安栖里)にある曹洞宗の龍心寺に「幼稚院」が開設されました。これは、同年7月に京都府の中属職にあった長■■田重遠から府知事に一通の建言書が出されたことに端を発します。この中で、夏になると大人が耕作に出て家に幼児を見守るものがいないため、子どもが谷深い川■■■■■■に水浴びに行って水死することがたびたびあり、救済の術として、児童を養育し健康を保つには至極の処である寺院に、6歳未満の児童を対象とした西洋のような幼稚院を設置することを求めています。この建言書が契機となって、府知事と大書記官の決裁を得て、同年10月12日には、戸長や区長から龍心寺の境内に子どもたちを集めて、福永梅芳住職を教師として毎日、イロハ五十音や単語、図などによる「授業」を同月26日から始めるという届けが出され、西洋の幼児教育施設に倣った日本で最初の公立幼稚園が開設されました。しかし、この幼稚院は幼稚遊嬉場と同様に長くは続きませんでした。幼稚園や保育所の「はじまり」を巡っては、「現存」「官立」「私立」などの条件が付されることで多くの「最初」が見出されることになります。しかし、龍心寺の幼稚院は現存してはいませんが、日本で最初の幼稚園であり仏教園であるといえます。ところで、現■存する仏教園としての「はじまり」はいつどこに求められるでしょうか。これは、1888(明治21)年に新潟県で開設された「幼稚保育所」が最古といえますが、経営難により3年で閉園しています。その後、1953(昭和28)年に現在の「和同保育園」が開設されています。また、1892(明治25)年には山口県で「華浦幼稚園」が開設されていますが、こちらも3年余りでいったん閉鎖されています。その後、1908(明治41)年に移転してから現在の「鞠生幼稚園」まで継続されています。このように、一旦は閉園や閉鎖しても再び開園したり、そのような期間が異なったりするなど、「現存」と一概に言っても、現存する最古の仏教園を見出すことは未だにできていないのが実状です。仏教保育協会が設立された機縁の一つで、日本で最初の幼稚園に関する独立した勅令である幼稚園令が制定されたのは、1926(大正15)年のことです。1899(明治32)年には「幼稚園保育及設備規程」が制定されましたが、これは「第三次小学校令」に付随する「小学校令施行規則」に含まれる形でした。これが、幼稚園令の制定によって、保育項目に小学校とは異なる幼稚園独自の教育が見出せるようになりました。その一方で、託児所に関しては全国的な基準がまだ定まっていない状況で、地域や施設によって異なっていました。そんな中、第一次世界大戦後による大戦景気で物価が上昇し、1918(大正7)年には米価の急上昇によって富山県で米騒動が起こり全国へ拡大するなど、人々の生活は苦しいものでした。このような状況を受けて、社会事業としての託児所が、公的な政策としても進められるようになりました。1919(大正8)年には大阪に最初の公立の託児所が設立されたことをはじめ、京都や東京などでも同様に設置されていきました。このような流れを受けて、1926(大正15)年の幼稚園令では、幼稚園に入学する年齢が3歳以上で小学校就学までを原則としながらも、特別の事情がある場合には3歳未満の幼児の入園も認めるなど、幼稚園に託児所のような機能を持たせることを可能としました。幼稚園令を契機として、幼稚園が全国でさらに普及し、昭和に入る頃には託児所も急速に増加しました。そのため、仏教関係者の間でも幼稚園や託児所の開設を発願する人が急増しました。これが、仏教保育協会の設立へと歩みだす機縁となり、その足音がいよいよ聞こえてくるようになるのです。「幼稚院にて当時使われていた机」「龍心寺山門」1981(昭和56)年3月1日発行「仏教保育カリキュラム第13巻第12号」より表面に小刃で刻んだ落書がある。1981(昭和56)年3月1日発行「仏教保育カリキュラム第13巻第12号」より(3)第674号令和2年8月1日発行
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