202010
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い範囲で認めていました。いずれにしましても、幼稚園令および施行規則は、保母の資格や検定の制度などがはじめて明文化され、幼稚園の設置や廃止、職員や設備などに関しても規定された画期的な法令でした。これ以外にも、施行規則第2条の保育項目が「遊戯、唱歌、観察、談話、手技等とす」として、規程の4項目に「観察」を加えた5項目が規定されました。また、「等」が加えられたことで保育項目の範囲が広がったのです。さらに、施行規則第19条の幼稚園の設備には、「砂場」を備えることがはじめて明記されました。幼稚園令および施行規則の制定は、これを待ち望んでいた関係者に大きな励みとなりました。そして、幼稚園の開設や運営などの環境が整備されたことで、仏教の関係者の間でも仏教園を開設しようという機運が高まったのです。仏教保育協会の役員が異口同音に言及していた「御大典事業」や「幼稚園令」ですが、協会が設立された最大の要因は、仏教園が増加したことにあります。仏教保育史で記録が残されている中で、大正1桁年代の頃は、仏教園の設立はほとんど1桁前半だったのが、幼稚園令が制定された頃からは、毎年ほぼ2桁の伸びをみせるようになりました。しかし、制定以前の1921(大正桁後半から時に2桁に増加していたことも見逃せません。このような背景には、一体何があったのでしょうか。3つのことを指摘しておきます。1つ目は、第一次世界大戦の影響による生活苦や米騒動です。大戦景気によって、農村から都市へと労働者が流入したことで、低賃金での過酷な労働環境や労働争議、住宅難やスラム街形成など、深刻な生活問題が引き起こされました。また、賃金がほとんど上がらない中でインフレによる生活苦となり、とりわけ主食である米価の急上昇は家庭を直撃しました。1918(大正7)年には、富山県で米騒動が起こって全国へ拡大するなど、(平成8)年廃止]、現在のマハヤ貧困層が拡大して人々の生活は大変に苦しいものでした。さらに、米騒動が全国的な問題となって貧困層の家庭に注目が集まったことで、困窮状態の子どもたちの存在も広く知られるようになりました。また、自宅や近所、家族の仕事場などで子どもが溺死や転落といった不慮の事故や、動物に襲われるなどして亡くなったり負傷したりすることが報じられ、児童保護が社会問題として捉えられるようになりました。このような問題への対策から、1919(大正8)年には「内務省地方局救護課」が同省同局の「社会課」となり、翌年には同省の「社会局」へと格上げされました。慈善事業や感化救済事業とは異なる(戦後のマハヤナ保育園[1996(大正10)年8月社会協同の責任を有するという社会連帯思想による組織的、防貧的な社会事業が展開されました。託児所などの児童保護は、私的な事業のみならず公的な政策としても推進されるようになったのです。その後、第一次世界大戦が終結してもまだ好景気が続いてはいましたが、1920(大正9)年には輸出の不振による大量の余剰生産物を抱え、株価が大暴落して大正バブルが崩壊し、戦後恐慌が起こったのです。この頃に、両親が働きに出たり家族が多忙であったりする家庭の子どもたちのために開設された仏教園は、1920(大正9)年4東京の「マハヤナ学園保育部」ナ第二保育園へと継承)、1921栃木の「敷島幼児園・宇都宮託児所」(現在の宇都宮保育園)、1923(大正千葉の「旭幼稚園」などがあります。  月 2つ目は、関東大震災です。1923(大正12)年9月1日に発生した大地震の震源は相模湾で、マグニチュードは7.9と推定されています。関東南部から東海地域の広範に甚大な被害をもたらし、「福田会育児院」(1879[明治死者・行方不明者は10万人以上に上りました。この大地震によって焼け野原になった東京で、子どもたちを救済したり教育したりするために開設された仏教園は、1923(大正年11月増上寺託児所、現在の明徳幼稚園)、同年12月「江東託児所」(現在の江東学園幼稚園)、1924(大正13)年4月「明照幼稚園」、同年10月「寛永寺幼稚園」などがあります。3つ目は、個々の仏教園が開設された地域の実情や開設者の発願などに拠るもので、時期が前後しますが2つの事例をご紹介します。1917(大正6)年9月30日に東京を襲ったいわゆる「大正6年台風」による大津波は死者・行方不明者が500人以上で、多くの子どもたちが家族を亡くしました。被災児童を救済するため、日本で最初の児童養護施設である年10月、臨時託児所を開設しまし年5月に常設の「福田会亀戸保育た。その後、1919(大正8)所」(現在の亀戸幼稚園)が開設されました。1926(大正15)年7月に新潟の栃尾町(現在の長岡市)に開設された託児所は、自然災害を契機とした開設者の発願によるものです。同月28日、戦後に一級河川に指定された西谷川が氾濫したいわゆる「栃尾郷大水害」が発生し、栃尾町だけでも死者・行方不明者が87人にも上りました。復旧のため日中に作業に出かけた家族と離れざるを得なかった子どもたちが、被害を免れた宝光院に集まって終日過ごしていました。この光景を目にした佐藤義調住職が、「仏に仕える身として子どもたちを寺で預かろう」と発願して、同月30日に託児所を開設し、2年後の1928(昭和3)年に現在の「芳香稚草園」を設立しました。大正時代に開設された仏教園は、現存していない施設も多いのですが、個々の仏教園に特有の開設背景があったことも見逃せません。仏教保育協会の設立には、幼稚園令が制定されたことで仏教園が増加したことが創設当時の役員の共通認識でした。その一方で、幼稚園令が制定される以前の大正10年頃から仏教園は増加し始めていました。それでも、幼稚園令を契機として、全国的に仏教関係者の間でも幼稚園や託児所の開設を望む人たちが急増したことは事実です。しかし、いざ仏教園の開設を発願しても、具体的にどうしたらよいのかわからない関係者が多かったのです。そこに登場したのが、協会の設立を主唱した堀緑羊だったのです。仏大教正園時増代加にのお背ける 景(機関誌『仏教保育』第10号 1934年5月1日発行 より)「1934(昭和9)年3月に改築された園舎」「寛永寺幼稚園全景」令和2年10月1日発行12)年9月「明徳学園幼児部」(同12]年)を創設した福田会が、同12)年4月第675号(2)10)年から、開設数が継続的に1

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